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戦後は食糧不足で大変苦労したが、その食糧統制の裏では、「ヤミ米」横行の時代がしばらく続いた。やがて経済の高度成長時代を迎え、農業も食糧増産の時代から、だんだん状況が変わってきた。食生活の変化と輸入食料の増加で、「米あまり」の状態となった。国では政府の集荷米が毎年多くなり、ついに水田を減らして、他の作物へ転作するように指導するようになった。当然、農家の収入も減り、農家の若者は収入の多い他の職業へと出て行った。そのために農家には後継者がいなくなり、高齢者ばかりが残ってしまった。昭和60年(1985年)頃には、何も作物を作らない荒れた農地が現れはじめた。
当時、私は農協役員であったので、こうした遊休農地を何とか有効に利用できないものかと深く考えた。その頃の新聞にに、都会における「市民農園」の記事があった。農協でもこれに関心を寄せ、昭和62年(1987年)7月に、東京都練馬農協の市民農園を視察することになり、私も同行した。さらに市農政課と協力し、松本・大町方面の先進地の視察にも行った。その後、何回かの協議の結果、集落営農実践組合が運営を担当することになり、平成元年(1989年)に「ふれあい農園」として、上牧地区の私の水田に設置することになった。「市報」や「農協いな」、地方新聞の報道もあり、近くの美原区、若宮団地へは、希望者募集のプリントも配った。また区長さん方にも頼み、公民館での説明会も開いた。その結果17人の希望者があり、内心ほっとした。しかし、野菜生産者からは反対の声もあり、実際に利用される人がどのくらいいるかも分からず、農協の担当者も私どもも、大変気をもんだものだった。県の担当課でもアンケート調査など協力してくれた。また日本農業新聞にも記事として取り上げられ、世間の注目をあび、その反響の大きさに驚くとともに、責任の重大さを深く感じた。「どうしても成功させて、少しでも地域の発展に役立てば」と願って努力した。また上牧地区の利用者には、農園のつづきに、馬鈴薯とさつまいもを栽培し、収穫の時期には希望者を募り、掘り取りを行い、それを市価の半値で分けて皆で喜んでもらった。
それから以後ずっと今まで続けている。今では利用者も八割くらいは同じ人になり、定着してきている。この農園は親子のきづな、お年寄りと孫との暖かい交流の場となり、また定年退職者の健康づくりの場など、目に見えない良さがあることを深く感じている。収穫の日のあのうれしそうな顔を見るととき、戦後50年、変化の激しかった農業をずっと体験してきた私は感無量である。(上牧区北部・76歳・農業)
平成9年(1997年)伊那市戦後50年史編集委員会編集・戦後50年伊那市民史~あの場、あの時~・ より